世界は楽しみに満ちている。

ヨーロッパ在住の会社員の雑記帳です。ジャンル問わず好きなこと書いてます。

7つのメガトレンドから考える日系メーカーのあり方

昨日面白い記事を見つけたので1日遅れですがご紹介。

これからの30年を考える7つのメガトレンド

今後30年で世界がどういった変化をしていくかをまとめた記事ですが、この先30年で下記のようなトレンドが顕著になるだろうと予測されています。

1.加速する人口増加-2050年に人口90億人に-
2.枯渇する自然資源 -現在の生活スタイルを続けるには地球2個分の資源が必要-
3.高齢化する社会
4.リアルとネットの融合 -不可欠なインターネット-
5.個人、市民、NPOの台頭 –Power to the people, power of the crowd-
6.変わる組織 ピラミッドからネットワーク型へ
7.Happyが中心の産業の進化 –マーケットの成熟とサービスの進化-

詳細はリンク先を見て頂ければ、分かりやすくまとめられています。


これから30年、世の中は大きく変わっていくんだろうなぁと思いますが、個人的にはやはり日本の行く末が気になるところです。特に自分も働いているモノ作り企業。日系メーカーですね。特に2011年度はパナソニックソニー、シャープといった名だたる企業が巨額の赤字を計上することになりました。地震や洪水、パナソニックなんかはサンヨー買収の影響もあると思いますが、それでもかつて栄華を誇った日本ブランドが韓国を始め新興メーカーに圧倒されているのは、誰の目にも明らかです。

果たして30年後、日系メーカーは生き残れるのでしょうか。そのことを考える上で特に重要なのは、上記のまとめでいうところの、

6.変わる組織 ピラミッドからネットワーク型へ
7.Happyが中心の産業の進化 –マーケットの成熟とサービスの進化-

であると考えます。

日系メーカーがこれからの時代を戦い抜く上で、自分が考えるキーポイントは下記の3つ。

1. 徹底した経営のスリム化と効率的な組織への転換
2. グローバル社会で通用する経営者の育成
3. 人の感性に訴えかけるマーケティング戦略

1.に関して言えば「変わる組織 ピラミッドからネットワーク型へ」そのもので、大企業の抱える中央集権体制をもう少しフラットにしていく必要があるかなと。今までの時代(といっても90年代前半までの話ですが)は基本的に景気は右肩上がりで、着実に生産活動を続けていればそれに応じて売り上げや利益もついてくる時代でした。そういった時代において、一人一人に明確に仕事が割り振られ、情報を集中管理できる組織のあり方はまさに理想的です。やればやるだけ結果がついてくるのですから、着実性、確実性が一番大事な世界なのです。

それに対して、市場規模は縮小していて、変化も大きいこの時代。更に商品のコモディティ化も進んでいるので、決まったことをこなし、着実に新しいスペックを追加していったり、地道なコストダウン活動を続けてもなかなか顧客に振り向いてもらえない。そうなると、企業の統率以上に「個々人が独創性を発揮すること」や「スピード感を持って仕事をすること」の重要性が高まってきます。しかしながら、独創性やスピード感は、強固な管理体制下ではなかなか生まれません。上下関係がはっきりとしている組織では、どうしても稟議に時間がかかり、職制の意向を気にしてしまいオリジナリティ溢れるアイデアも出にくくなってしまいます。その点、ネットワーク型の組織ではリーダーは調整役にとどまり、社員は自主性が尊重されるため色々なアイデアを提案することができ、それを必要なメンバーで議論してアイデアを広げることが出来る。

そして実はこの組織のあり方は「2. グローバル社会で通用する経営者の育成」にも通じてて、今までの上司に従っているいい子ちゃんでは、やはり今後生き残るための会社の舵取りをしていくことは困難極まりないことです。下っ端の頃から自由な環境で議論させ、広い視野を持って仕事に取り組めることは人材の成長を促す上でも大変効果的なことです。GEではCEOの後継者候補には必ず新規事業のマネジメントを経験させるといった話も聞いたことがありますが、自分でプロジェクトに積極的に関われるという点で近しい効果が得られるのではと考えています。

そして最後に「3.人の感性に訴えかけるマーケティング戦略」について。このことを考える上では「Happyが中心の産業の進化」という観点が非常に重要になります。産業は「Material→Product→Service→Happiness」という流れでシフトしていくという理論ですが、まさに社会は今モノに「Happiness」を求める時代に変容してきています。例えば、iPadのヒットについて考えると、Appleのマーケティング戦略が見事顧客の思い描く「Happiness = 暮らしが劇的に便利なる」にマッチしていると想像させたことが成功の一因かと思います。「いつでもどこでもすぐにWebを閲覧できて凄く快適、ハッピーだ!」というイメージですね。別にSony Tabletでも同じことが出来るのですが、Appleは故ジョブズ氏のプレゼンを含めてその「Happiness」の見せ方がとても上手い。(「ストーリー」と言い換えられることもありますが) 最初に紹介した記事では「今ハッピーの産業にいるのはディズニーランドだけ」とありますが、決してそうではなく、今後のモノ作り企業が目指すべきところもまさに「ハッピーの産業」であり、それを実現するのは製品そのものというよりは「マーケティング手法」だと感じるのです。


長々と綴ってしまいましたが、要するに今世の中に起こっているメガトレンドを把握して、それに応じて日系メーカーは体質を劇的に変えていかなければならないというのが今回の愚考の結論です。特にマーケティングの部分は、コモディティ化した商品を差別化していく上で非常に重要になっていくことでしょう。

幾分素人なもので具体的な話に踏み込めないのがもどかしいですが、日系メーカーの復興は非常に興味があり、そして回復を願って止まないという個人的な思いもあるので、折に触れて今後の生き残りをかけた戦略について思考を巡らせていきたいと感じる次第であります。

以上。

恵方巻きがぽっと出のイベントだと思ってる君たちへ告ぐ

若干乗り遅れた感はありますが。

先日は節分でしたね。節分と言えば豆まき、そして恵方巻き。

…のはずが、ついに先日知ってしまったのです。

関東では恵方巻きの風習は最近までほとんどなかったことに!

地元関西では物心ついたときからずっと恵方巻きを食べてたので(恵方巻きという名前を覚えたのはしばらく経ってからですが)、すっかり全国共通の行事かと思っていました。そんな慣れ親しんだ文化が、関東の人に「コンビニが金儲けのために生み出したぽっと出のイベント」と揶揄されていることを知り、大変大きなショックを受けました。

このままではいけない。少しでも多くの関東の人たちに恵方巻きのことを知ってもらわなければいけない。

という妙な使命感にかられ、少し恵方巻きのルーツを調べてみました。

***

恵方巻きのルーツは諸説あり、どれが信憑性のある情報なのかよく分からないみたいです。

まず一番真っ当なのが、1. 江戸時代の末期から大阪の商人たちが商売繁盛を祈願して恵方巻きを始めたという説。

しかし軽く検索してみたものの詳細の掲載されているページは全然見つからず。下記のリンクのように本当に簡単に紹介されている程度です。

語源由来辞典 恵方巻き

もう1つ見つけた全うながらもマイナーな意見が、2. 厄落とし

何故恵方巻きに厄落としの意味があるかというと、豊臣秀吉の家臣が合戦に出陣するのに、節分の前日に巻き寿司を食べて合戦に臨むと大勝利をおさめることができたという逸話から来ているらしいです。本当なのかは疑わしいですが。。実際に一番解説が詳しいWikipediaでも板海苔の誕生は江戸時代なのでこの由来は疑わしいと言い切っちゃってます。

恵方巻きの色々な由来の諸説

恵方巻-Wikipedia

そして、もっとも下品かつネタにされつつあるのが、3. 大阪舟場の旦那衆が遊女に巻き寿司をくわえさせるというわいせつな遊びをしていたのが起源とする説。

もちろんまとめサイトでネタにして笑われていましたが、自分もよく見ているわかったブログさんまでこのことをネタ的に取り上げられていました。

企業がひた隠しにする、恵方巻きを食べる「直接の由来」とは?

上記のWikipediaを見てると他にも諸説ありそうですが、検索でヒット数が多かったのはこの3つ。いずれにせよ言えるのが、恵方巻きの文化はぽっと出のイベントではなく昔から関西で行われていた行事であるということです。

コンビニが無駄に盛り上げてきているせいで色物的な目で見られることの多い恵方巻きですが、一関西人としては、恵方巻きは少し歴史は浅いものの、れきっとした関西の文化だと主張させて頂きたい次第であります。それがわいせつな遊びを起源とするものだったとしても。

ちなみに、恵方巻きのお作法については下記でとても分かりやすくまとめられています。トライする際には(といっても今度は1年後ですが)是非ご参考にしてください。

節分1:恵方巻(丸かぶり寿司)の謎を解明

以上。

新世界より

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(中) (講談社文庫)

新世界より(中) (講談社文庫)

新世界より(下) (講談社文庫)

新世界より(下) (講談社文庫)

貴志祐介に初めて挑戦してみた

新聞か何かで紹介されてたのがきっかけで購入したみた本書。

めちゃめちゃ面白かった。圧倒的な世界観と練り尽くされたストーリー。構想30年とかほんまかいと思ってたけど、この内容なら納得です。

舞台は現代から1000年後の日本。呪術と呼ばれる念動力を持った人間が統治する町から物語は始まる。主人公の手記という形で綴られる物語は子ども時代から始まり、思春期を経て大人へと成長する過程で経験する冒険、友との別れ、そして異種との戦争が臨場感を持って描かれます。その雰囲気は少しハリーポッターと近しいものを感じますが、読了感は全く別ものです。

■ とにかく世界観が凄い

秀逸なのが1000年後の世界という視座に立って客観的に現代社会を語るときの台詞。何故古代人は同じ人間を殺すことが出来るのか…何故古代人は罪悪感を感じることもなく大量の人を殺戮する破壊兵器をつくりあげたのか…野蛮人として描かれる我々の姿に出会うたび、背筋が震えた。 ありえない話のはずが人間の習性を考えるといずれこの本で描かれるような世界に行き着くような感覚に陥り、少し怖くなりました。

しかしながら何と言っても醍醐味は、冒頭にもあげたこの圧倒的な世界観。自分たちにはおよそ想像も出来ない未来の世界が、見事なまでに緻密に描写されています。独特の生き物がたくさん登場するのもこの話の特徴。終始漂う不気味な雰囲気はきっとこの生き物たちが創り出す独特の空気のせいかとも思いました。

■ とにかく読み出すと止まらない。特に中巻と下巻。

上巻は時間をかけて読みましたが、中巻と下巻はページをめくる手が止まらず1日1冊のペースで読み込んでしまいました。SFやミステリー好きにはとてもオススメ。でも、ホラーとかグロテスクな話が嫌いな人には向かないと思います。

以上。

芸能人や著名人から学ぶ生き方のヒント

自分が芸能人や著名人についてすごいなー思うこと。

それは、『ディスられる』ことについて。

有名人の宿命だと思うのですが、たくさんのファンがつく一方で、たくさんのアンチが存在します。あれだけCDも売れて握手会も盛況なAKBも、2ちゃん界隈でぼろくそ言われたりネタにされたりしてますし、Twitterで韓国ゴリ推しを擁護したロンブー淳も叩かれまくりましたし、アルファブロガーのちきりんさんや大学教授の内田樹氏もきつく批判されてる方々がいらっしゃいます。あとは勝間和代さんや香山リカ先生なんかも酷いディスられっぷりですよね。

皆さん平然と受け流されてるようにも見えますが、実際に自分が攻撃の対象になってしまうとやはり傷ついてしまうと思います。勝間さんなんて最近は本(といってもここ1年くらいは読んでないですが)の中にも自分を批判する人に対する反論を盛り込んでくるくらいですから、相当気にされているのでしょう。AKBとかロンブーの淳さんみたいな有名人は、プライベートでもマスコミが目をギラギラ見張らせているんでしょうから、日々大変なストレスだと思います。

自分がすごいなーと思うのは、そういった批判をダイレクトに受けたり影でねちねちディスられながらも、平然としてTVの前で自分を貫くその姿です。芸能界は心を病む人が多いと聞いたことがあるような気がしないこともないですが、きちんと活動を続けられている人たちは、きっと心の強い人たちなんでしょう。

この『ディスられる』という現象、有名人だけではなく、普段の生活でもそこらで見かけたり、経験することがあります。人の陰口を言ったり、自分の言った意見を公然と批判されたり、執拗なまでに駄目だしされたり。そういう行動の対象になるのが嫌な人は、ひたすら人の機嫌を取ることや、波風を立てないことに敏感になり、無難な生き方を選んだり、無難な発言を心がけるようになります。要するに空気を読んで場の空気を取り持とうとするということですね。相手に対して強く自己主張ができないのです。自分もその部類だと思うのですが、日本人はこういったタイプが多い気がします。

でも、そういう生き方って実はすごく勿体なくて、批判されることを減らせる変わりに、自分の意見をしっかりと聞いてもらって、自分のことを理解してもらい、そして他の人に好かれる(ファンになってもらえる)チャンスをみすみす逃してしまっていることがあるかもしれないんですよね。

衝突を避けることは簡単。でも、そのせいで色んなチャンスも自ら避けてしまっていることを、人は案外気づいていないと思います。

どういう生き方をするかは人それぞれですが、少なくとも国際社会で活躍したいと思う人や、ビジネスで成果を残したいと思う人は、傷つくことを恐れず自分の味をしっかりと出していけません。ディスられても笑顔で舞台に立つアイドルのように。批判されてもけろっとした顔で新しい記事を書くアルファブロガーさんのように。批判されることを怖がっていては、人に影響を与えたり、社会を変えていくことは出来ません。生きる上でも、批判は当たり前と自然に受け入れられる心の余裕が必要なのでしょう。

ふとそんなことを感じたので、備忘録的に残しておきます。


以上。

縁故採用はありか、なしか

昨日のエントリーが思いもよらず色んな人にはてぶとかリツートしてもらっていて戸惑いを隠せない自分です。

とはいっても世の中には1日に何万ものアクセス数を稼ぎ出す人がたくさんいらっしゃるわけですが…。自分も面白いエントリーが書けるように、毎日文章を下記綴ることで上達を目指したいと思います。

それはそうと、岩波書店が今年は縁故採用のみを受け付けるという方針を打ち出したみたいですね。

応募条件「コネのある人」宣言 岩波書店が縁故採用

しかしながらそれに対して何やら厚労省(というか小宮山さん?)が過剰反応を示している模様。。

縁故採用宣言で岩波書店調査へ 厚労省

正直、なんで厚労省から物言いが入るのか全く意味が分かりません。というか、縁故採用に絞るっていうアイデアはなかなか合理的なアイデアだと思うのですがいかがでしょうか。ちなみにネットの調査によると賛成52%、反対48%ということで、ほぼまっぷたつに分かれている様です。下記の記事に状況がよくまとめられていましたのでご紹介。

岩波書店の「縁故採用」宣言 そんなに悪いことなのか

個人的には、この方針には大賛成です。むしろ、岩波書店縁故採用という方針は、雇い主にとっても雇用される側にとってもメリットがある話なのではないでしょうか。

岩波書店の採用人数は毎年一桁。この枠に入ろうと千以上の応募者が殺到するわけですから、それはもう熾烈な争いです。エントリーシートを全て読むのもなかなか苦しいでしょうし、まともに採用活動を行うとコストがかかってばかりで仕方がないでしょう。岩波書店の社員さんは全員で200人。講談社集英社は700-900人くらいですから、それと比べるとかなり少ない。200人のうち人事部が何人かは分かりませんが、出版不況の昨今採用活動にそこまで人数を割いている余裕もないはずです。採用方法を縁故採用にすることで、予め応募者をフィルタにかけることが出来るので、採用にかける時間をぐっと短縮することができます。

また、雇われる側、つまり学生にとってもこれは1つのチャンスと捉えていいと思います。なぜなら、これで「とりあえずエントリーする組」の数は間違いなく減少します。すなわち、ライバルの数が激減するのです。今までは本当に岩波書店に行きたい人でも、とりあえず受けて採用されてしまった人に枠を奪われて涙を飲まなければいけないことがたくさんあったはず。しかしながら、今回のケースでは熱意を持って岩波文庫の著者や社員さんにコンタクトをとれば、面接をさせてもらえるチャンスがぐっとあがります。悪い話ではないですよね。今まではそんなことしてもあまり気にかけてもらえなかったかもしれませんが、面接を行う絶対数が減るとかまってもらう可能性がかなり高まると思います。

このように、自分の熱意が採用者に届きやすくなるということは、本当に岩波書店に就職したい人にとってとても良いチャンスだと思いますし、企業も熱意ある学生を見つけやすくなるので、うまく活用出来ればまさにWin Winの関係を築けますね。

思うに、『縁故』という言葉が変な誤解を与えているんですよね。

きちんと採用条件を読むと、※岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があることという注意書きが書いてあります。上の記事にも書いてありますが、別に社員の親族や知人に限るわけではなくて、例えば大学でOBのリストや教授、先輩たちを当たって何とか知り合いを見つけて紹介してもらえれば面接にたどり着けるわけですし、もしそれが無理なら著者に片っ端から連絡を取って紹介状を書いてもらうこともできるわけです。誰にでもチャンスはあるわけです。

そもそも、政治家を筆頭にコネによる採用なんてどこにでもあることだと思うので、それを公にするか裏でやるかの違いでもあると思います。コネ入社というと使えるかどうかも検証せずに仕方なく雇うっていうイメージが強いですが、今回のケースは少し質が違うものなのかなーと思ってます。高らかに縁故採用を宣言することで、明らかなコネ入社も抑制できるかもしれませんね。

まぁだからといって全ての会社が縁故採用を行って良いのかと言われれば、それはそれで問題ですが。

最近はソーシャル採用も広まりつつありますが、型にはまった採用法だけではなく、企業が色々な方法を考えて万人にチャンスが行き渡るような仕組みになればいいなーと思います。

以上。

ネットの中の嘘と本当

突然ですが、この写真を見たことがありますでしょうか。

たぶん、Facebookやってるほとんどの人が、誰かがシェアしているのを見かけたことがあるのではないでしょうか。詳細は省きますが、人種差別をシニカルに批判したスチュワーデスさんの対応が描かれたストーリーで、これを読んだ人たちはみんな”いいね!”やコメントをたくさん残し、まさに拍手喝采という状況がWeb上で起こっています。

そんな現象に一石を投じたのが下記の記事。

Facebookはバカばかり

そう、この話はデマ。正確には、元ネタがあって、それに色んな脚色が付け加えらたお話のようです。

デマと言えば、ちょっと前にゲーセンで出会った不思議な子の話という話が2ちゃんやはてな界隈で大変盛り上がり、自分もこのお話を読んで痛く感動しましたが、これもデマである可能性が非常に高いとされています。それでも大変多くの人がこの話に感動し、リツイートとはてぶの嵐となりました。

この現象を皮肉った記事で有名なのがこちらですね。

実話として流通する嘘に大喜びする愚民


正直、自分は話が本当だろうが嘘だろうが、面白ければそれで良いと思ってます。人種差別の話だって良い話なので1つの例として引用すれば良いと思いますし、ゲーセンの話もフィクションだとしても良く出来ていますし、読んでて楽しいので文庫化されるといいのになーと思っています。

ですが、同時に少し怖さを感じます。

この2つの例は信じたからといって特に何か害があるわけではないですが、これがもし、命に関わる重要な話であったなら。社会をパニックに陥れるような話であったら。

震災の後、放射線を含んだ雨が降るといった悪質なデマが広まり、たくさんリツイートされました。言うまでもないですが、Facebookで良いなーと思った話(実はデマ)をシェアするのと、放射線に関するデマ情報をリツイートするのは、質こそ違えどやっていることは全く同じなのです。

上の2つのブログの著者の方が批判しているのは、まさにこの点で、自分の頭で考えてみることを放棄して流れる情報を鵜呑みにし続けるネットリテラシーのない国民を問題視されているのだと思います。

情報の溢れかえるこの時代だからこそ、情報を発信する側の人は自分の発言に責任を持たなければいけない。ドヤ顔で「いい話見つけた!」と拡散しまくるのではなく、一度それが確かな話なのか確認してみる。嘘の話でもそれが有益で是非みんなにも知ってもらいたいと感じるなら、「※これは実話ではありません。」といった文言をそっと添えて周りにシェアおけば良いのです。そういったことを書くと興ざめになってしまう可能性もありますが、嘘をあたかも実話のように語るのはモラル的にもよろしくありません。

そして受け手側も、情報の出所や信憑性を確認する癖をつけなければならない。始めから100%信じてかからない。少なくとも自分の生活に影響を与えるような重要な話は十分に吟味する必要があります。専門家ですら間違うこともあるのですから。そして、いざという時に考えられるかどうかは、普段からネットとどう関わっているかに尽きると思うのです。ネットリテラシーを磨くためには、日常レベルで考えることを習慣化しないと、いざという時にころっと騙されてしまう可能性が高いので。

自分も情報をすぐに鵜呑みにしてしまう質なので、気をつけようと思う次第です。


以上。


***追記***

指摘されて気づいたのですが、上記に「放射線の雨が降るといった悪質なデマ」と書いてしまいましたが、「コスモ石油の爆発で有害物質が含まれた雨が降る」の覚え間違いでした。お詫びと訂正まで。

TOEICが『運転免許証』化する時代

今日読んだ下記の一連のつぶやきが参考になったので、自分も英語について少しだけ書いてみる。

最新!英語発音勉強法〜オンライン英会話を併用して最速でネイティブ並の発音法を手に入れる〜

上のリンク先にあるのはいかにして発音能力を向上させるかというお話で、発音関連の必読書とラングリッチというオンライン英会話を利用した発音上達法がまとめてあります。最終的に発音は喉で行うものだとありますが、これは本当にその通りでちょっと声の出し方を意識してみるだけで少しネイティブっぽくなったりしますよね。外国人が一般的に日本人よりも力のこもった歌がうたえるのも言語的に発声法が違うことが1つの要素だという話も聞いたことがあります。発音がうまいと外国人とのコミュニケーションが発音が円滑になるだけではなく、日本人の同僚にも一目置かれるので、自分ももっと発音上手になりたいという思いは持っています。

ただ、今日ここに書こうと思ったのはそういうことではなくて、英語能力にどこまで投資するかは冷静に考えて判断しなければならないという話。

英語の勉強と聞いてほとんどの人がまず最初に思い浮かべるのはTOEICでしょう。TOEICの点数アップに向けて雑誌では色々な特集が組まれ、勉強法などを紹介した書籍もたくさん出版されています。シュウカツするにあたっても、TOEICで良い点をとってアピールしなければいけないなんていう文言を見かけることもあったり。

確かにTOEICの点数をアップさせようとすることは英語能力の向上につながりますし、良い点を持っているとある程度自己アピールにもなることは分かりますが、それでも自分としてはTOEICスコアの指し示す英語能力に非常に懐疑的な感情を抱いています。TOEICで高得点をたたき出したとしても、それはあくまでペーパーテストで高得点をとったという事実を証明するだけで、その人が『不自由なくネイティブとコミュニケーションできる』ということは保証しません。所詮はペーパーテスト、テクニックさえつかんでいれば得点は取れるのですから。

更に、仮にTOEICが高得点でネイティブとのコミュニケーションがそれなりに取れるとしても、きちんと仕事を回せる能力がないと、英語力は何の役にも立ちません。それに、純日本人がいくらTOEICを頑張ったところで帰国子女にはどうしても勝てません。そして最近の大手企業はどんどん帰国子女や外国人の採用比率を高めてきています。そんな中、TOEICの点だけ高かったとしても、そこに何の付加価値があるのでしょうか。

こういった現象を自分はTOEICの『運転免許証』化現象と勝手に呼んでいます。

つまり、TOEICは英語が使えますよー(運転出来ますよー)ということを保証するだけで、英語をつかいこなす能力(運転技術)を保証するものでもなければ、プラチナカードのような珍しいものではなく皆持っているものなので、他の人と差別化できるようなものでもありません。

色んなところで言われていることですが、もはや英語が出来るだけでは屁の突っ張りにもならないです。英語が出来ることはグローバル展開している企業においてはほぼ当たり前のことになりつつあります。これは実感レベルでもそう感じていまして、例えば自分はTOEICが大体900点くらいで英検が準1級という肩書きですが、部署の中ではだいぶ英語が出来ない部類です。みんなグローバルな仕事がしたくて英語を勉強するんでしょうが、英語が出来るだけでは何の差別化にもならないので、配属されたとしてもその先行き詰まってしまうのが見え見えなんですよね〜。逆に、英語がたどたどしいからといって評価されないわけではなく、つまりながらも論点を的確に捉えて自分の意見を相手に躊躇せず伝えられる人は良い評価を得ることが出来ます。

なので、誤解を恐れずに言うと、グローバル時代を生き抜くためには英語なんて勉強してる場合ではない、というのが僕の考えです。

英語の勉強は完璧を求めずコミュニケーションできるレベルになった時点で勉強のペースを落として、今まで英語の勉強に使っていた時間をロジカルシンキングであったり、ビジネスの基本知識や一般教養を習得する機会を増やして”考える力”をつけていく方が確実に『グローバル人材』に近づけるはずです。必要なのは、洗練された教育を受けた外国人とアグレッシブにディスカッションをし、アウトプット生み出す能力なのですから。

いつの時代だって求められるのは小手先の技術ではなく、本質的な力です。

英語だけでなく中国語やその他第二外国語を学ぶというのも一つの手だと思いますが、それを仕事で活用できるかは運によるところが多いので、今の部署で必要とされない限りは、どんな場面でも使える知識や知恵のボトムアップに時間をかけた方が効率的だと思います。

もし自分に自信がないのでせめてTOEICくらい良い点を取っておこうと考えている人がいるとしたら、考え方を改めて自分に自信を持つために本当にしなければいけないことは何かをまず考えるべきでしょう。

かくいう自分もグローバル人材にはほど遠い準おっさんなので、内面から逞しくなれるように日々精進を重ねたい次第です。


以上。